最近よく耳にする「インクルーシブ教育」や「インクルージョン」という言葉。
もともと特殊教育の分野から生まれた概念であるため、また、権利条約に「インクルーシブ教育システムの構築」とにあるため、
「インクルーシブ教育とは、障害のある子と障害のない子が一緒に学ぶこと」
インクルーシブ教育は、「障害のある人」のみにかかわることだけなのだろうか。
私は、インクルーシブ教育とは、「多様性を受け入れられるために、教育システム自体を変えていくプロセス」という定義をよく使っている。
はじめにインクルーシブ教育の考え方が国際的に提唱されたのが「サラマンカ宣言」(1994)。
けれど、その意味はしばし誤解されがち。
もともと特殊教育の分野から生まれた概念であるため、また、権利条約に「インクルーシブ教育システムの構築」とにあるため、
「インクルーシブ教育とは、障害のある子と障害のない子が一緒に学ぶこと」
のみと解釈されがち。
実は違うのです。
インクルーシブ教育は、「障害のある人」のみにかかわることだけなのだろうか。
私は、インクルーシブ教育とは、「多様性を受け入れられるために、教育システム自体を変えていくプロセス」という定義をよく使っている。
はじめにインクルーシブ教育の考え方が国際的に提唱されたのが「サラマンカ宣言」(1994)。
サラマンカ宣言では、
■すべての子どもは誰であれ、教育を受ける基本的権利をもち、また、受容できる学習レベルに到達し、かつ維持する機会が与えられなければならず、
■すべての子どもは、ユニークな特性、関心、能力および学習のニーズをもっており、
■ 教育システムはきわめて多様なこうした特性やニーズを考慮にいれて計画・立案され、教育計画が実施されなければならず、
■特別な教育的ニーズをもつ子どもたちは、彼らのニーズに合致できる児童中心の教育学の枠内で調整する、通常の学校にアクセスしなければならず、
■このインクルーシブ志向をもつ通常の学校こそ、差別的態度と戦い、すべての人を喜んで受け入れる地域社会をつくり上げ、インクルーシブ社会を築き上げ、万人のための教育を達成する最も効果的な手段であり、さらにそれらは、大多数の子どもたちに効果的な教育を提供し、全教育システムの効率を高め、ついには費用対効果の高いものとする。
さらに2003年のユネスコの政策文書は、インクルージョンを
「全ての学習者の学習、文化、地域社会への参加を促進し、教育の中でも、教育そのものからも排除されないような状況をつくることによって、彼らの多様なニーズを明確にし、応えていこうとする過程」とし、
インクルーシブ教育を
「正規・非正規の教育環境における広範囲にわたる学習ニーズに適切な対応を提供していくこと」であり、かつこれを「(特別のニーズを有する)学習者の一部がいかにして主流の教育に統合していくか、という周辺的な課題のことではなく、教育システム全体をいかにして学習者の多様性に対応するように変容させていくかを模索する方向性である」としている。
(黒田一雄先生の訳)
つまり、インクルーシブ教育は、
①学習者はみんな何らかのニーズがある ことを前提とし
②特定のニーズのみではなくて、どんな多様なニーズにも応えることができるような教育システムを目指し
③そのような教育システムを作っていく過程
ということ。
③そのような教育システムを作っていく過程
ということ。
よく「インクルーシブ教育の実現のためには通常教育改革からはじめねば!」といわれる理由はここにある。
だってそもそも教育システム自体を創るんだから、「通常」とか「特別支援」とか関係ないもの。
まずは「インクルーシブ教育」の話をする時に、この3点の共通理解が特別支援教育「関係者」の中でも、外でも必要だ。
ここの共通理解が取れなければ、ずっと足踏みをしているようなものだと思っている。
ここの共通理解が取れなければ、ずっと足踏みをしているようなものだと思っている。
はじめまして。名古屋で学習塾を営んでいる古賀と申します。
返信削除ネットサーフィンしていてたどり着きました。
そもそも「インクルーシブ教育」という言葉は不要ではないかと最近思うようになりました。
誰でも学べる環境を1つ整える事が必要だと。そのためのアクティブラーニングだと思いますし、大学入試改革だと思います。多様な個性が溢れる社会はもう始まっています。その社会をよりよくするための教育環境作りはまったなしです。
文科省がえいやと決めて、それを学校に下ろして、学校がその通りに動くというやり方も古い気がしています。20年程度は耐えうる理念的土台を文科省が決めて、あとは、現場がアメーバのように機能する。そんな教育環境を整える必要があるのかなと。