「普通」を疑う


ちょっと感情的です。分かってて書きます。
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よく相談を受ける。

「でもこの子がちゃんと45分間座れなかったら、困るのはこの子でしょ?」


早期療育の現場では、「学校で適応」するために、「45分座って課題をする」「指示に従う」「集団に合わせて行動する」「我慢する」ことを目的としているところは少なくない。とにかく指示に聞くことができれば良い。我慢ができれば良い。

これは障害のある子どもへの義務教育が始まったころ言われた「愛される障害者を目指そう」といった考え方にすごく似ていて、正直私は好きな考え方ではない。
「他の人に迷惑をかけない、愛される障害者を育てよう」

そう言うと、

「理想としては違うけど…でも現実的に考えて、学校なんてすぐに変えられないんだから、適応できるように指導する方がこの子は幸せでしょ?」

と言われる。

本当だろうか。
「我慢」し続けた結果、その子は幸せになれるのだろうか。
感情を押し込めることが「良い」と逆に学習してしまうのではないか。
指示を常に待つようになるのではないだろうか。自発的に働きかけることは難しくなるのではないだろうか。

自分がやりたいことよりも「適応すること」を選択することが当たり前になったら
「他者の価値観に合わせる」ことが当たり前になってしまったら
その子は自分がやりたいことを追求できるのだろうか。
自分で自分の幸せを探すことができるのだろうか。


それよりも、困った時に「困った、助けて」と言えたり、指示が分からない時に「分からない、教えて」と言えたり、どうしても出来ない時には「出来ません」と言える方が大切なのではないだろうか。
好きなものを好きと伝える力。苦手なことは苦手と伝える力。
自分で決める力。自発的に意思を伝える力。

我慢させることが悪いことと言いたいのではない。
それだけを「良し」とするのは疑った方がいい。

「適応」「我慢」を選択する時は、それが自分にとって得と分かっている時だけでいい。
それしか選択肢がなくなってしまったら、辛すぎる。


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「小1の口にテープを貼らせる 京都の小学校で担任教師」

コメント欄を読んで欲しい。
正直似ている「生徒指導」という名付けられた指導を何度も現場で見たことがある。
その度に何もできない自分、何も言えない自分が悔しかった。

「普通の生徒指導」をしてうまくいかなかったら、その子は「特別」なのか?
「普通」をどうして疑わないのか。

先生が悪いといいたいのではない。学校が悪いといいたいのでもない。
コメントを書いている人達を責めているわけではない。

これを見た私はどうするのか。
これを見たあなたはどうするのか。

「テープを貼られないように」「怒られないように」
子どもに我慢を覚えさせることを、適応を覚えさせることが私たちの役割なのか?

それとも
子どもに自己決定スキルを武器として提案しながら、
多様性に耐えられるような文化や社会を作っていくことが私たちの役割なのか?
少しずつ、自分の周りから変えていくきっかけを作っていく。

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無理やり「我慢」させて「適応」させてその子を壊すくらいだったら、
あたしは迷わず社会の「当たり前の価値観」の方をぶっ壊したい。

まだまだ何もできていない。
ここから。いまから。

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