インクルーシブ教育には通常教育の改革が必要なワケ


これまで
「インクルーシブ教育とは」
「インクルーシブ教育と特別支援教育の違い」
など、このブログで書いてきた。

例えばインクルーシブ教育の定義として、
全ての児童生徒には多様なニーズがあることを前提とし、そもそも現在の学校教育システムがそれらのニーズに対応できる構造になっているのかを確認し、多様なニーズに対応できるように、学校教育システム自体を変容していく過程。

と書いた。

文科省はインクルーシブ教育システム構築のために特別支援教育を推進している。
もちろん特別支援教育の視点は非常に重要だ。
だが、まずは通常教育を改革していかないと、インクルーシブ教育の実現は難しい。

例えば、現在の取り組みとして、
障害のある子どもが就学する際に、以前よりも就学の場を選択しやすくなっている。
通常学級に障害のある子どもたちが通いやすくなった時、いまよりも多様な子どもたちが同じ場で教育を受けることになる。

そうなった時に、必要なのは「合理的配慮」であるとされている。
合理的配慮として下記の3つが必要とされている。
(ア)教員、支援員等の確保
(イ)施設・設備の整備
(ウ)個別の教育支援計画や個別の指導計画に対応した柔軟な教育課程の編成や教材等の配慮

確かにこういったことに取り組む必要はある。

だが、そもそも通常教育の在り方が画一的な場合、「合理的配慮」を加えたとしても、目的は子どもたち一人ひとりの自立と自己実現ではなく、「集団に適応する」「障害のない子と同じようにやる」ことになってしまう。

現に学校教育の現場ではよく見られる場面である。
漢字が苦手な児童がいる。「合理的配慮」として支援員がとなりにつき、皆と同じドリルをやるように促す。が、この児童は視覚認知に困難さがあり、他の子どもと同じように文字を書くことが難しい。
そのため、いくら支援員が上手に促しても、離席をする。支援員は一生懸命席に座らせようとする。他の児童はシーンと漢字をしている。

この時に当該児童の目的は、果たして「我慢してみんなと同じように漢字ドリルをやること」なのか?それとも児童に合っている方法で「漢字を学ぶ」(例:iPadの活用や異なる漢字ドリルの使用など)ことなのか。

だいたいの人が後者である、と言うだろう。
だが、実際には「その子だけ別のドリルをやらせるわけにいかない」「他の子がiPadをうらやましがる」などと聞く。

考えてほしい。
そもそも漢字ドリルを用いて全ての子どもに漢字を学ばせること自体、子どもたちの最大限の学びを引き出しているのか?
誰もが異なる認知的な特性を持っている。つまり、誰もが異なる学習スタイルを持っている。視覚的な情報が得意な子どももいれば、聴覚情報が得意な子もいる。動作と連動して記憶する方が得意な子どももいる。異なる興味関心を持っている。誰もが異なる個性がある。
なぜ私たちはそういう子どもたちに画一的な学習スタイルのみを押し付けるのか?

40名学級の子どもたちがどのような学習スタイルをもっているのか、確認する方法はある。
例えば松村暢隆先生の代表的な「認知的個性」の考え方。
松村先生も活用されているマルチプル・インテリジェンスの考え方もその一つであろう。
学級にいる子どもたち一人ひとりの認知的個性を明らかにし、それぞれの認知的個性に合わせた学習活動を組み立てることは難しくない。

アメリカではDifferentiated Instruction※といった指導方法が当たり前とされている。
これは特別支援教育の文脈ではなく、そもそも通常学級で使用されている指導方法。
児童生徒の学習進捗や学習スタイルに合わせて、指導方法を「Differentiated」する考え方。
同じ単語を学ぶ場合に、あるグループの子どもは動作を用いてパズルで学ぶ。あるグループはワークシートで学ぶ。あるグループは自分達で単語の辞書を作って学ぶ。あるグループはパソコンのソフトを使って学ぶ。

「資源がないと出来ない」「人が足りない」との声を聞くが、果たしてそうだろうか?
明確なルール設定と的確なアセスメント、子どもたちの動機づけ、アプローチ方法の引き出しがあれば可能であると私は思う。
…がまだ実証できていないので、これからしなくちゃ。

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よく単純に多様な子どもがごちゃまぜにいる場における教育を「インクルーシブ教育」と称して、「インクルーシブ教育がつらい子もいる」と批判を受ける。

それは勘違いだ。
多様な子どもがいる状態が「インクルーシブ教育」なのではない。
ましてや多様な子どもに対して画一的なアプローチ方法をおこなうことなんて全くもってインクルーシブではない。

そもそも人間多様なんだから「障害」がある子どもがいるから「多様」なんじゃない。

だから私たちはどんな場においても子どもたちは多様な学び方をすることを前提とし、多様なアプローチ方法を模索し続ける必要があるのではないだろうか。

もしくは画一的なアプローチ方法を良しとするのであれば、たくさんの異なるアプローチをする場を用意し、どの子どもも柔軟な選択権を与えられるべきではないか(これは私が最近言っている「生態系としてのインクルーシブ教育」。

「普通学級が良い」とか「特別学級がダメだ」とかいいたいのではない。
ただ、一つしか選択肢がなくて、その中でも画一的な方法論しかされていなかったら、辛い。


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そしてこれは多様な人がいることを前提とした組織マネジメントにも同じことが言える。

既存の学校教育自体が画一的なままでは、多様な子どもを一つの方法論に合わせることが目的となってしまう。もしくは「他の子とは違うから別の指導方法を使うしかない」といった考え方になり、結果集団としてのインクルーシブな文化は作れない(こちらにも書いたとおり)
だからこそ、通常教育の在り方こそ変えていかなければならない。

今後は画一的な方法論をきわめているカリスマ的な先生ではなく、多様な引き出しを持っている先生たちが活躍していくのだろう。


※ 自分の論文で恐縮ですが、こちらにDifferentiated-Instruction について書いてます。


コメント

  1. 大切な視点だと思います。
    このあたりのことを文科省はどう考えているのでしょう。

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