わたしの仕事は翻訳家

子どもたちと接していて思うこと。
すべての行動には「意味」がある。

気になるものを触って部屋をぐるぐるまわるあの子は、世界が分かりづらくて不安だから触って確かめざるを得ないのかもしれない。
「構造化」は世界をあの子にとって分かりやすくするためのもの。

硬いブロックを噛むあの子は噛んだ時の感覚が安心するのかもしれない。自分専用のかみかみグッズがあるといつだって安心できる。

プリントを見るたびに拒否反応を示すあの子は文字が踊って見えて怖いかもしれない。音は怖くないから読み上げたら怖くなくなる。

五分たりとも座っていないあの子はエネルギーが有り余ってて持て余しているのかもしれない。発散できる時間をたくさんつくってみるといいかも。立ちっぱなしやバランスボールの方が集中できるかも。

集中できないあの子は自分にとっての目的が見えづらいのかも。自分の役割が分からなくて辛いのかも。あの子にとっての目的や役割を明確にしたらいい。

その子のことをよく見て、その背景にある思いを探る。

私たちにとっても世界はこれだけカオス。
人によっては超カオスだ。
だからカオスな世界をあの子にとって分かりやすく翻訳したり、あの子なりの精一杯の世界との関わり方を周りにとって分かりやすく翻訳する。
こうしたら伝わるかもよ?こうしたら言いたいことがわかるかも。
すると、ちょっとずつお互いの「コトバ」がわかるようになる。
お互いにとって心地よいコミュニケーションの仕方がわかる。

そうなったら、私はそうっといなくなっても大丈夫。

専門知識はあの子を知るためのツールであり、翻訳をするためのツール。
専門性はいかにおおくを翻訳できるか、だ。
一方だけでなく、双方にこの翻訳作業が必要。コミュニケーションは相互作用だから。
コミュニケーションがうまくいかない時、それは両者の相互作用の中に「障害」がある状態。

最近はこんなことをよく考えているのです。

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