「完璧な支援者であれ」「完璧な専門家であれ」という呪い

仕事がら、他者の得意や苦手、特性やスキルをアセスメント(情報収集・分析)する機会が多い。それが自分の専門性の一つでもある。

そして人材育成をしている中で被育成者にこの「アセスメント」するスキルを教える機会も多い。

その中で感じることは、他者のアセスメントをすることはとても得意だが、自分のアセスメントをすることが苦手な人が多いこと。

つまり、「自己認識」が苦手な人が多い。(かつて私もそうだった)

もしくは、自分自身のスキルや特性、得意や苦手を自己認識していても、そこに対して「ネガティブ」な感情が深くまとわりついている人が多い。

例えば、
自分より経験年数の少ない人に何かを質問されたり、自分の専門外の人に質問された時に「わからない」と答えることは、「専門家としてダメなこと」
全て自分で解決ができることの方が「専門家として良いこと」と認識している場合が多い。

そしてそれを「他者」にも強いている。
「完璧な支援者であれ」「完璧な専門家であれ」
そうして他者に強いる「あるべき論」が結局自分の首を絞めている。

そうなると、いつのまにか結局支援の対象となっている子どもや大人に対して「より良い支援」を届けるよりも「自分がみんなから『できる専門家』であるとみられること」の方を徐々に優先しはじめてしまう。

特にわたしの専門領域はあまりにも個々によってファクターが異なるため、「正解」が非常にわかりづらい分野。
そのため、唯一の「正解」はその子、もしくはその人にとってのより良い「正解」を探し続けることである、と私は思っている。

「自分が正解を持っている」ことよりも、「その子にとってより良い方法を探し続けること」の方がよっぽど大事なこと。

前回の繰り返しになるけれど、どんな専門家であっても、その子・その人のことを完璧にアセスメントできる人なんていない。
常に「自分には見えない何かがあるかもしれない」ことを前提として持ち続け、そのためにより良い方法を他者に聞いたり、調べたり、更新したりし続けたりできる方が「良い支援者」なのではないか。

そのためにも、まずは自分自身が「完璧な支援者ではない」「完璧な専門家ではない」「自分より良い方法を知っている人がいる」ことを前提としつつ、そこに対して「だから自分はダメだ」なんていうネガティブな感情をもたないこと。

もし今持っているのであれば、そのネガティブな感情を無理やりなくすのは難しいから、少し「自分はダメだ」を横において、「自分が本当に大切にしたいことはなんだろう?」を言語化し、そこにコミットした行動をし続けることで徐々に感情と実際の行動を切り離していくこと。

「完璧な支援者であれ」
「完璧な専門家であれ」
「完璧な上司であれ」
「完璧な教師であれ」

そんな呪縛から解き放たれ、本当に向き合うその人の幸せや成し遂げたいモノゴトにピュアに向かうことができた時、人は一番そのひとらしく輝くんだろうなあ、と思う。

特に新入社員のひとや、新たな道を歩みはじめたひとたち、
そして組織の中でちょっと「上」の立場になったひとたち、

変な呪いには惑わされずに、
解決したい!という気持ち
助けたい!という気持ち
成し遂げたい!という気持ち

にまっすぐ向かい続けて欲しい。

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