「差異のジレンマ」と戦う


「差異のジレンマ」とは。

「障害者」というラベルを貼ることの功罪という問題で確かに核心に触れる論点である。つまり、差異に注目することが格差の拡大をもたらす場合がある反面、差異を無視することが格差の拡大につながる場合もある。ミノウはこれを「差異のジレンマ」と名付けている。差異、障害者分野でいえば、障害(disability)、つまり、身体的・感覚的・知的機能の制約を持ち、社会的に不利益を受けてきた集団や個人に対して、その不利益の是正を行おうとする場合に、差異、すなわち障害に着目せざるを得ない。しかし、それは逆に差異を強調、固定化することにもつながる。日本での障害者の雇用率や米国のアファーマティブアクションと呼ばれる積極的差別是正措置には常に、差異(障害や人権)を法律や行政措置が制度化してしまう危険性がつきまとう。それを避ける1つの方法は確かに、北欧やILOが述べたように、万人を対象にするという普遍化である。例えば、A Society for all(全員参加の社会)は普遍化指向の発想である。

 しかし、差異のジレンマにはミノウが述べているように、反対の一面もあり、それは、差異を無視することにより、かえって平等が実現されないことである。例えば、視覚障害者に対して音声、電子情報や点字での情報の提供を拒むことは、その差異を無視することで、差別的となる。のっぺらぼうの「普遍」が一部の人間、例えば障害のない、健康なある年齢層の有職男性だけを意味する時に、その弊害は明らかである。」



インクルーシブ教育を語る時にこの「差異のジレンマ」にぶち当たらざるを得ない。

以前ブログに「障害と支援」について書いた時、障害名ファーストで語ることには危険性もあると書いた。

「『発達障害は』『ADHDは』『自閉症は』などと障害名ファーストで説明することによって、逆に個がみえにくくなっているのではないか。『関係者』が障害名ファーストで語ってしまうことによって、それを聞いた人がカテゴライズをして『自分たちとは異なる』という見方をしてしまう危険性がある」

だが一方で、障害名がないと支援が届かない。

昔、三木安正が言ったことと類似するが、社会が多様性を受け入れることができるキャパができたら、障害名があろうがなかろうが障害名ファーストで語るが語らまいが、「差異のジレンマ」は解消されるのだろう、と思う。

でもこれってすごく難しいこと。

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最近あたし自身がこの「差異のジレンマ」に悩まされている。

例えば「全ての子どもを対象とした教育」を考える時。つまり、差異の固定化を防ぐために普遍化して考える時。
誰もにとって生きる上で必要となるであろう知識やスキル、そして教育の目的である軸を決定し、その軸からブレない教育の在り方を考える。

その際に、その「全ての子ども」は何を、誰を指しているのか、を考えてしまう。

「多様な子ども」を想定していたとしても、その中には障害のある子どもたちは含まれているのか。寝たきりの子どもはどうか。

「すべて」の子どもを考えれば考える程、「一人ひとり」の子どもたちの顔が目に浮かぶ。「障害」のある子どもたちの顔が目に浮かぶ。
「障害」というラベルを使う。差異に着目する。固定化しないために「すべて」と言ったのに。
どこまで分けて考えるのか、どこまで一緒と考えるのか。
括って考えたくなかったのに、ラベルは無視できない。葛藤。
括ることと括らないことのバランス。

何が正しいか、ではなくて、自分が何に納得できるか。

インクルーシブ教育はこの「差異のジレンマ」への挑戦だ。
すべての子どもを対象としながら、「差異」と捉えられやすい、固定化されやすい子どもの層を無視しない。


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もちろん誰もが異なることを前提とした教育の在り方は考えているのだけど、限界があるのではないか。

あたしは「障害」の勉強をしてきたから、そのような子どもたちも含んで考えるが、接したこともない人は想定ができないように、あたしも想定できない子どもたちの像があるんだろう。


大事なことは自分が想定できる範囲には限界があることを自覚しておくことと、その上で、自分は何の、どこの役割を担いたいのか、を決断するために自分と向き合うことなんだろう。

誰もが幸せになるためには、どんな教育の形がいいのか。

これからの社会を考えた時に、どれだけラベル必要になるのか。必要ないのか。

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追記

「ラベルをつけるのが正しいか、間違っているか」ではなくて、どちらにもメリットデメリットがある。ラベルを貼るのであれば、「あの子は多動だからADHD」みたいなマニュアル化やラベルの一人歩きに注意せねばならないし、逆にラベルを貼らないのであれば、一人ひとりに支援がしっかり届くように注意しなければならない。そして、必要なラベルと不必要なラベルはその時の時代やその国の文化によっても異なる。それを踏まえた上で、あたしはラベルを使う。でもそれは個人の問題。だから、日本として、どんな仕組みをつくれば、上記にあげた危険性を回避できるかな、を考えたい。現にラベルを多用することによる「差別」は起きているし、ラベルを知らないことによる「差別」は起きている。



コメント

  1. 震災の文脈で「被災地」「被災者」というラベル貼りがあって、同じようなことを考えました。 http://awai.jp.net/essay/touch/

    ラベルが、名前が、障害名や病名が、立場や肩書が、あることで、苦しんだり反発する人もいれば、居場所や安心を得られる人もいるのでしょう。

    人によって受け取り方は違うから、万能の「正解」は無いのかもしれません。
    今の現場でも、営業に回っていて、「障害」の文脈で話す時と、そうでない時があって、それが最適解かはわかりませんが、一回一回、微妙な試行錯誤の繰り返しです。

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  2. 確かに「被災地」「被災者」もラベル貼りだね。
    一人ひとりと向き合って対話を繰り返しながらも、ラベルにまとわりつく固定観念と向き合いながらラベルとうまく付き合っていきたい。

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