私は全てを0か100かで考えてしまう傾向がある。
3年ほど前に、「インクルーシブ教育の実現を目指す私自身はインクルーシブな人間だろうか。」と考えたことがある。
私自身が本当に誰もが異なることを前提とできているのだろうか。
結果、「できていない」と思った。
私自身、苦手な人がすごく多い。そもそも人と話すのはあまり得意ではない。気を使いすぎて疲れてしまうから。
でも、自分と異なる人間を受け入れることができない私が「インクルーシブ教育」なんて言っていいのかなあ、と思った。
だから、一旦、「来るもの拒まず去る者追わず」をやってみよう、と思った。
つまりどんな人でも「この人苦手だわ」と思っても、まずは話してみよう、理解しようとしてみよう、とトライしてみた。
結果、思っていたよりもずっとパワーを使い、疲れ果ててしまった。
それも私は苦手な人を本質的には受け入れることはできなかった。
そんな自分にイライラした。
「なんで私は異なる多様な人々が当たり前に共存することを目指しているのに、自分では受け入れられない人がとても多いのだろう」と思い、自己嫌悪に陥った。
当時そんな話しを唯一の呑み友達にしたら、
「そんなん仏じゃないから無理っしょ」
と言われた。
「た、確かに…」
一気に楽になった。
---------------------------------------------------------
インクルーシブ教育は、
学習者はみな多様であることを前提とした教育システムをつくっていくこと。
「多様性を受け入れる」「個性を受け入れる」社会をもちろんつくっていきたい。
ただ、個人として、
「多様性を受け入れる」「個性を受け入れる」ってどんなことなんだろう。
多様な人間を全て受け入れて、笑顔で接することなんだろうか。
苦手な人がいても、無理して接することなんだろうか。
嫌いな価値観を「嫌い」と言わないことなんだろうか。
「違い」に対する恐怖心を隠すことなんだろうか。
けんかを避けることなんだろうか。
文句を言わないことなんだろうか。
きっとそういうことではないのだと思う。
だって嫌なものは嫌だし、怖いものは怖い。
----------------------------------------------------
以前、「あたしはきっと差別や排除をしているだろう」と書いた。
いろんな人がいると知ること。
自分の想定外な価値観、世界観のある人がいると知ること。
一人ひとり異なる価値観を持っている。
自分の知識や経験、想像力には限界がある。
だから自分の価値観は「絶対」じゃない。
だから自分のことを信じながら疑う。疑いながら信じる。
知らない間に自分はきっと「差別」をしてしまっている。
分かっていても受け入れられない時がある。
そんな自分を自覚しておく。客観的に見て、受容する。
その上で、
苦手な人や苦手な価値観とは、上手に距離を置きながら、共存していけばいい。
私にとって 「インクルーシブな人」はそんな自分自身に自覚的である人。
コメント
コメントを投稿