システムで担保できることと、できないこと。

気まぐれに始めたから気が向いた時しか書かなくてごめんなさい…


昨日はNPO立ち上げ準備中(ワタシは理事の予定みたい)の某団体が主催する特別支援教育&インクルーシブ教育勉強会S.incの開催日でした。

ゲストに安部博志先生(筑波大学附属大塚特別支援学校主幹教諭,文京区特別支援教育専門家チーム)をお迎えし,安部先生の現在までの「インクルーシブ」へ向けた取り組みや、今後の課題についてお話しいただきました。(ツイートのまとめはこちら

やっぱり一番あたしが気になったのは、先日もツイートして悶々としていた、
「インクルーシブ教育システム」で担保できることと、できないことってなんだろう
ってこと。
そして、「システム」で担保した方が良いことと、しない方が良いことってなんだろう
ってこと。

これってどこにもつながる話で、最近組織について考えることが多いから生まれてきた疑問。
(ちなみに私は組織論とか、そういうのまったく勉強してないから全部「あたし論」)

システムや仕組みが存在する意義って、「最低限」を担保するため。
法律やルールも、極端な話、「殺しちゃだめ」なんてルールなくても一人ひとりが「殺しちゃだめ」って思っていれば、殺さないかもしれない。でも一人ひとりの「道徳心」や「判断基準」のみに委ねたらうまくいかないし、わかってても衝動的にやっちまう人がいるから「最低限、これは守ろうぜ」って共通理解のためのルールがある。

システムは、集合体や組織における役割をそれぞれが円滑に遂行したり、それによって最低限の質を担保したりするためのもの。だと思っている。

その上で、今日本が向かっている「インクルーシブ教育システム」はどうかなーって考えてみる。
(もちろん結論や答えはない話)

例えば「合理的配慮」について考えてみる。
「合理的配慮を拒否することは差別につながる」ってことがルール化されるとする。
誰もが「ルール」に従って配慮をするようになる。
「ルール」を守らないヤツは「悪」にもなり得る。
このような「システム」は果たして「多様性を認めあうインクルーシブな社会」につながるのだろうか。


視覚に障害のある友人がいる。その友人は大学と大学院、別々のところに行った。
大学では、「障害学生支援」なるものはなかったとのこと。でも手助けが必要な時は、まわりの人達が自然と手助けしてくれたとのこと。
大学院では組織だてて「障害学生支援」をやっているところに行ったとのこと。そこでは情報保障もしっかりとされ、手取り足取りなんでもやってくれたとのこと。

その友人と話していた時、組織だった支援がないところの方が気が楽だったなあ...とぼそっと言っていた。

別の友人は「支援組織があるところって、全部やってくれようとするから、逆にめんどくさい、というか優しすぎて怖い」ともいっていた。

また別の友人は、「以前は支援組織がないところだったから、だれも何も助けてくれなくて本当に困った」と言っていた。




インクルーシブ教育システムは構築しなければならない。合理的配慮は今後おそらく義務付けられるだろう。
でも、システムが存在するだけではおそらく意味がない。

システムの前提として、ダイジなものがある。
システムでは管理できないナニカがある。




なんでしょう?



ここに関してはまた別のタイミングで...

いずれにせよ、
「インクルーシブ教育システム」について考えるとき、「システムで解決できること」と「できないこと」or「しちゃいけないこと」を混同させないように気をつけよう。


ただ、昨日集まってくださった15名?ぐらいの方たちと会って思ったし、毎回のCBEや勉強会やツイッターでも思う。
これだけ真剣に考えている人がたくさんいたら、未来は明るいぜ。
これからもひたすら対話を繰り返していこうと思う。

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