「障害」と「支援」

1年ちょっと前に、ツイッターに「障害名ファースト」で語ることについてつぶやいた。

その時のまとめがこちら⇒「障害名ファースト」で語ることについて

この頃はまだツイッターを始めたばかり?かな?結構ラディカルなこともつぶやいている気もする...

「『発達障害は』『ADHDは』『自閉症は』などと障害名ファーストで説明することによって、逆に個がみえにくくなっているのではないか。『関係者』が障害名ファーストで語ってしまうことによって、それを聞いた人がカテゴライズをして『自分たちとは異なる』という見方をしてしまう危険性がある」

 その時に「障害名を広めることは不可欠」や「やっぱり必要」「あった方が説明しやすい」などのご意見もいただいた。


もちろんその通りだと思う。なぜ「障害」という言葉ができたのか、なぜ「特殊教育」ができたのか、を考えると、「普通から除外」するためではなく、その方が支援が確実に届くから。
今だって診断を受けなければ支援は受けられない。セイフティネットを作るためには分けて考えることが必要だったのだ。
今でも「障害」という言葉を使うな!や「必要ない」と思っているわけではない。


ただ、「障害」は集団の中に生まれるものでもあると思っている。


「障害」を「個とその個を取り巻く集団の間にあるもの」と捉えた時、個を取り巻く集団やその集団の文化、そして時代によって、何を「障害」とするか、は変わってくるものである。(※ICFの観点)

たとえば、

真っ暗な場所だったら視覚障害のある人より目が見える人の方に「障害」がある。

たとえば、

このあいだテレビで見たけど、毎朝通勤電車の1両目はゴスペルを歌うところがあって、そこでは「電車の中で歌う」が「普通」で、黙っている方が「変」。
日本の電車だったら、歌うが変で、黙るが普通。



だから、

障害がある=過ごしにくい、困っている わけでもない。
障害がない=普通 なわけでもない。

もちろん、障害がある人や家族の中の過ごしにくいと感じている人の数は、障害のない人のそう感じている人の比率より高いかもしれない。でも、障害のある人=過ごしにくい=要支援 と括るのは違う。そして、障害がない=過ごしやすい わけでもない。


過ごしにくい人がいるっていうことは、障害があろうがなかろうが、それはその人たちが属している集団の問題なのだ。
ということは、その集団に属する全員が当事者であり、全員がその地域で過ごしやすくなる方法を考えなければならない。
インクルーシブな地域や文化を作るためには、その作業が必要不可欠であると感じている。

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昨日はあたしが企画をし、会社にバックアップをしてもらい、
「すぎなみ地域シンポジウム どの子も過ごしやすい地域づくり~インクルーシブな社会のための地域内連携~」というタイトルでシンポジウムを開催した。

50名弱の人たちが集まり、
「過ごしにくい子どもはどんな子どもか」
「過ごしやすい地域はどんな地域か」
「そんな地域を作るためにはどんな仕掛けが必要か」
話し合った。

学校の校長先生、こども発達センターの所長、子育て支援団体の代表の方にお越しいただき、参加者のみなさんと一緒にディスカッションをしていただき、語っていただいた。

今回敢えて「障害」という言葉をタイトルの中にもフライヤーの中にも入れなかった理由は、上記に書いた通り
①「障害」のあるなしは関係なく、どの子も過ごしやすい地域を作りたい。
②そのためにはその地域に住む人たちと過ごしやすくなる方法を考えたい。(「関係者」だけではなく)

伝わったかどうか、は、分からない。でもとりあえずやってみた。そしてたくさんの学びと出会いがあった。

思ったことは、ツイッターにもつぶやいたけれど、

インクルーシブな文化のある地域を創るためには、「義務」にするのではなく、風通しの良い、「関係ない」と思う人も関わりたくなるような魅力的な活動をしていきたい、ということ。
そして、
「知ってくれ!」「違いを認めてくれ!」と叫んでも、インクルーシブな文化はできないのではないか。共に楽しい活動をしていることで、気づいたら「知っている」し、「認めている」活動や場づくりが鍵、ということ。

そのためには「社会貢献」を謳ったり、「理解啓発」を謳うのではなく、「ただ楽しい」活動が良い。それもそういう活動の場があると良い。ハードルの低い、ゆるやかなもの。誰もが出入り自由な、そんな場や活動がたくさんあると良い。
ということ。

そんな中で一人一人がつながりながら、「違いを知る」ことができれば良いと思う。
そして、困った時はお互い助け合えればいいと思う。

そう、「障害」があるから支援をするのではなくて、自分の属する集団の中で困っているから、支援をするのだ。

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最近、「発達障害のある子どもの支援をしたいんです」って言われることがよくある。
たたかれる覚悟で聞いてみたい。

「あなたはどうして発達障害のある人の支援をしたいんですか?」

「発達障害」があるから、支援したいのか、
それとも「困っている人」を支援したいのか。
普段困っている人に出会った時、どうしている?
道に迷っている人、泣いている子ども、杖をついている人、荷物をたくさん持っている人。
点字ブロックの上にたくさん置かれた自転車、どうしている?



このブログにも 「障害」にかかわる仕事すること について書いたことがある。

この言葉を使って仕事をさせていただいていることを、食わせてもらっているということは、どういうことか。支援を「させてもらっている」のではないか。
自分は「障害」をどう捉えているのか。
逆に自分の仕事が、自分が「障害名ファースト」で語ることが、インクルーシブではない社会を作っているのではないか。
自分は多様性を受け入れられているのか。キレイごとばっかいっているんじゃないのか。
自分は自分と「違う」人間とどう向き合えているのか。

某大学は「障害学生支援」をすごくしているのに、いつも点字ブロックの上に自転車が置いてある。
私は恥ずかしい。恥ずかしいから、一つ、一つ、動かす。
でも時間がない時は、通り過ぎる。通り過ぎてしまう。
あたしは自分が「やろうぜ」と言っていることが、できていない、全然できていない。
多様な人を受け入れられていない。違いを受け入れられていない。
せめて、そういう自分だとういうことを、自覚していたい。
「仕方ない」と正当化したくない。

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大好きなボブ・ディランは「時代は変わる」と歌った。

「今遅れている奴はいずれリードする。
今の順序は意味がなくなってきている。
今一番の奴はいずれビリになる。
時代は変わっていくんだから」

何が「普通」で何が「違う」かなんて、すぐ変わるんだ。

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