権利条約とインクルーシブ教育


今日もあたしとあたしを取り巻く環境の間にある「もやもや」や「いらいら」や「遣る瀬無さ」を少しでも解消するために、自分が納得できるような「あたし論」を考える。
自分と世界の折り合いをうまくつけるために。「なぜこれは起こったんだろう。起こっているんだろう」に対して、「それはこういうことだから」 ど自分の中で折り合いをつける。誰かが挙げた理屈や理由ではうまく折り合いはつけられなくて、自分が考えた理屈が一番しっくりくる。そうやって生きてきた。今もそうやって生きている。

いつもお付き合いしてくれる方々、ありがとう。

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何度もここに書いているけれど、インクルーシブ教育=障害のある子とない子が共に学ぶこと、のみを指しているのではない。

新聞の記事に「最近は障害のある子が地域の学校に通うインクルーシブ教育が目指されている」のようなことがよく書かれているが、だいぶ誤解を生む表現だと思っている。
正しい表現は、「障害のある子どもも地域の学校に通うことを選択することができる」ではないのか。

確かに「地域の学校に誰もが通うこと」が障害のある人の権利条約では原則として掲げられているけれど、誰もに学びにくさや過ごしにくさがあることを前提とした場合、選択肢がたくさんある方が良いのでは、と一方で思っている。つまり「地域の学校に通うこと」が原則ではなく、「通うことを選択できること」が良いのではないか。

つまり、地域の公立学校を選ぶ人もいれば、そうでない学校を選ぶ人がいてもいいのでは。
これは障害のある児童生徒に限ったことではない。現にフリースクールやオルタナティブスクールを「選ぶ」人もいる。

アメリカが障害のある人の権利条約に批准しない理由の一つは、「ホームスクーリング」を「選択」している保護者団体の反対運動があるからだという。
原則を地域の学校としている権利条約に批准することにより、それができなくなるのでは?との間違った情報が流れていることが理由の一つとのこと。詳細こちら

また、すでに独自の法律、障害のあるアメリカ人法(American with Disabilities Act)や、障害者教育法(Individuals with Disabilities Education Act)などにおいて、基本的に差別の禁止や合理的配慮が義務付けられていることなどから、「国連にコントロール」されるまでもない、との声もある。
批准をしなくても「自分たちの国の障害のある人はすでに守られている」と。詳細こちら

いずれにせよ、見方によっては、「批准をしない」選択をし、独自に「アメリカ」という国の文脈に合っている法律を創りだしているアメリカは賢明なのかもしれない。



外圧的な理由…「どの国も批准しているからうちも批准しよう!」ではなくて、そもそも日本における障害のある子どもたちへの教育に関する課題はなにか。日本にとって理想的なインクルーシブ教育はなにか。ここを考えなければ、たとえ批准をしても、根本的に「学びにくさ」や「過ごしにくさ」は解消されないのでは?と思っている。

そのためには、インクルーシブ教育の根本的な理念…対象は「障害のある子ども」だけではなく、全ての子どもであり、「違い」を問題と捉えるのではなく、歓迎すること…をまずは念頭に置いた上で、日本にとっての理想的なインクルーシブ教育の在り方を考えたい。

国連がそう言ったから、批准に向けて議論を進める。いじめが起きたからいじめをなくすようにする。体罰がおきたから体罰をなくすようにする。外圧的で対処療法的な発想ではなく、まずは日本にとっての理想の教育を明確にして、課題を整理し、優先順位をつける。解決方法を考える。


ユネスコは「インクルージョンへのガイドライン」(2005年)において、
The principles of inclusion that are set out in various international declarations can be used as a foundation. These then can be interpreted and adapted to the context of individual countries.
国際的な声明などで掲げられているインクルージョンの理念を一つの土台として活用し、これらを各国の文脈に応じて解釈・調整をする。(詳細こちら) 

としている。


日本なりの解釈はなんだろう?

ある意味「障害のある子とない子が共に教育を受けること」のみにしてしまってはもったいない。
インクルーシブ教育について考えることは、「差異」を問題として捉えるのではなく、歓迎すること。
つまり、「差異」が原因で起こっている教育における諸問題の根本的解決にもつながる可能性があること。



あたしなりの解釈は次回にでも。

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