教育の本質は障害があろうとなかろうと変わらないはずだ


「障害のある子どもたちの教育を考えることはそもそもの教育の在り方を考えることである」と思うようになったのは大学3年ごろのことだと思う。

以来、10年近く特別支援教育の分野で学び実践をしているが、学校教育こそが「障害」を作り出しているのではないか、と感じる機会は多く、そもそもの学校教育の在り方を変えていきたい気持ちが年々膨らんでいる。

かつてまだ障害のある子どもたちが教育を受けることが義務化されていない時代、特殊教育を作ってきた先駆者たちは下記のように言っている。


個人差に応じた適切な指導が、単に障害児についてだけでなく、学級の全員について行えるような教育的諸条件が整備されたならそのとき障害児の多くは、特殊教育から通常の教育に戻っていけるにちがいない」  辻村泰男(1968
「社会が進化して、学校もあらゆる個人差をもった児童を同時に教育できるようになれば、或いは特殊学校などは無用になるかもしれない」 三木安正(1976

あたしは今でも教育の在り方が変わったら、「特別支援教育」は必要なくなるのではないか、と思っている。

それが「正しいか」「間違っているか」は人それぞれなので置いておくとして。

もちろん「特別支援教育はなくなった方が良い」と言っているわけではない。

先駆者たちが築き上げ、蓄積されてきた特別支援教育のノウハウを通常教育に融合させ、活用することにより、通常教育はより多様性に耐えられる教育へと進化を遂げることができるのではないだろうか。
そうしたら、特別支援教育といった枠組みは必要なくなる。

例えば「生活科」は通常教育よりも先に特殊教育の分野で発展した。
「キャリア教育」は知的障害教育がずっとやってきたことではないか。
「総合的な学習の時間」は、領域・教科を合わせた指導を主としてきた知的障害教育が参考になるはずである。

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教育の本質は障害があろうとなかろうと変わらないはずだ。

私たちが今やらなければならないことは、「通常学級における特別支援教育」や「合理的配慮」の前に、

誰もに共通する教育の目的に立ち返り、その目的に向かうために、
誰もが異なる学び方をすることを認めていくことではないだろうか。
子どもたちの多様さを否定するのではなく、歓迎していくことではないだろうか。


そのためには、以前こちらの記事にも書いたように、
誰もが自分に合っている学びを選択できるようにしていけたらいいと思っている。
なぜなら、画一的な学び方をこれ以上続けていたら、その学び方から「外れる」「乗れない」子どもは永久にいなくならない。

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今年は理想の教育の形や学びの形を追求できる年になると確信している。
既に素敵な出会いがたくさん。

枠を超えたい人とたくさんコラボをして、枠を超えた既成事実を創る。


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