あたしはきっと差別や排除をしているだろう

「差別をしてはいけない」
「排除をしてはいけない」

誰もがそう言う。


オトナは
「コドモたちが差別をされている状況が許せないのです」と言う。
「ショウガイシャを差別してはいけません」と言う。
「ニンゲンみな平等なんだから」と言う。
「人の気持ちになって考えなさい」と言う。
「この番組は差別を助長する」と言う。
「このコマーシャルは差別している」と言う。


でも
あたしにとっての「差別」とあの子にとっての「差別」は違う。
あの子にとっての「排除」とあたしにとっての「排除」は違う。


申し訳ないが、人の気持ちなんてあたしは正直分からない。
想像しかできない。


あたしは
本当に「排除」をしていないのだろうか。
本当に「差別」をしていないのだろうか。

たぶんあたしは差別をしているし、排除をしている。

2年前、誰も差別も排除もしないように気をつけてみたら、自分が疲れて死にそうになった。
「あきなは仏じゃないからそれは無理だ」と言われた。


人は多分差別や排除をする。気がつかないうちにするものだ。

あたしは多分差別や排除をこれからも気がつかないうちにする。

だから、これからずっと問い続けるのだろう。

問い続けるけど、それでも気がつかないかもしれない。

もしくはそのうち誰もが差別をするものだと正当化して開き直るかもしれない。



たぶん、だからあたしたちにはシステムが、ルールが必要なんだ。





「自分は排除をしていない」「差別をしていない」と言えるのだろうか。



「差別をするな!」「それは差別だ!」と叫び続けるのだろうか。

あるいは「誰もが差別をするもんだ」と開き直るのか。

それとも、ずっと問い続けるのだろうか。


何が正しいのかは、分かりません。

コメント

  1. 2012年の秋、ピッツバーグで、世界中から若者が集まって社会的イシューやら世界を変えることについて議論・発表する意識のたかーいサミットに参加したときのことです。

    色んなバックグラウンド、出身、専門、イシューを背負った人がスピーチをしたのですが、車椅子の女性のスピーチの後とか、ゲイの男性のカミングアウトの後とか、その本人のスピーチは立派なものだったんですけど、その後の沸き立つようなwelcome、称賛のスタンディングオベーションは、なんか強者が弱者に努力賞を上げてるような雰囲気がありました。そこで僕はQ&Aセッションの時に「彼女が障害を持っていなかったらスタンディングオベーションをしましたか?」って会場に投げかけました。
    http://awai.jp.net/essay/japanese_disability_oyw/

    「障害という言葉をなくす」を含め、障害にかぎらずあらゆるイシュー(民族・セクシュアリティ・ジェンダー・部落・放射能・公害etc.)におけるアファーマティブ・アクション、差別解消・是正の取り組みは、それ自体が差別を前景化するという切なさがあります。
    もちろん社会において重要な動きなのですけど、あんまり繰り返し唱えられると、やがてそれ自体教条的な思考停止ワードとなって、なんか気持ち悪い、白々しい雰囲気を醸し出すことがあります。
    だから、時には立ち止まって、水を指すことも大切なのだと思いますし、当時のこの行動自体は後悔していません。

    が、後日振り返って、あきなさんの"たぶんあたしは差別をしているし、排除をしている。"と同じことを思いました。

    あの異様な「ポジティブ差別」の雰囲気に反発し、斜に構え、ひとりひとりのスピーチとその後の拍手を素直に受け止めることができなかった自分も、同様に差別や偏見を持っている。

    差別と反差別。
    あざなえるなわのごとし。
    自分もいつだって絡め取られる。

    ーーー

    「社会問題」化していればまだマシかもしれません。

    最も切ない差別の源泉として、美醜の問題がある。
    それが100%絶対とは僕も思わないけれど、
    しかしおそらくある程度一般的・普遍的な美というものはあって、
    そうではない、醜いものを、僕たちはどこまで愛することができるのか。

    昨今のNPO・ソーシャルビジネスの戦略としての、
    これまで「ダサい」と思われてきたイシュー・分野を
    よりスタイリッシュに、カッコよくブランディンしていこうという流れ。

    僕は、美しい、カッコイイものが好きです。少なくとも自分が取り組む場合は、美意識に反することはあまりしたくない。だからこうした流れにはある程度同意・同調します。負のステレオタイプを揺さぶる手法として有効だし必要なことはあるでしょう。
    こうした動きはしかし、担い手がひとたび「俺たちイケてる、今までのアプローチは古い/ダサい/バカ」と全能感モードになり、世界を単色で塗りつぶそうとすれば、新たな差別、抑圧を生み出しかねない。

    社会運動はいつでも、危うい綱渡りです。

    何が正しいのか、適切なバランスなのか、まだよく分かりません。
    ーーー

    "「差別をするな!」「それは差別だ!」と叫び続けるのだろうか。

    あるいは「誰もが差別をするもんだ」と開き直るのか。

    それとも、ずっと問い続けるのだろうか。"

    差別や排除や格差自体はゼロにならない。人間には自意識があり、意識を持つということはわたしとあなたを分けるということだから…

    差別や排除と向き合うこと、克服することは、静的な単一の答えがあるというより、動的な運動なのだろうと思います。ひとりひとりの人生かけての。社会や人類の歴史をかけての。どこかで終わる、のではなく。



    ピッツバーグの出来事には後日談があります。
    年が明けて、スタンディングオベーションを受けた車椅子のスピーカーに、もう一度会いに行きました(その前に会場と、何度かメールでやり取りをして)。彼女がピッツバーグで取り組んでいるエンパワメントの活動を見学し、一緒に食事をし、ドライブをし、それぞれの体験や思いを語り。結果として、彼女とは今もよくやり取りをする、とても大切な友人になりました。
    http://awai.jp.net/essay/ja_pittsburgh_epilogue/

    サミット当時の会場の矛盾、と同時に自分自身の内側にある差別や偏見。それ自体は褒められたもんじゃありませんが、だけど、その衝動を素直に発したことで、そして彼女と対話したいと働きかけたことで、繋がったものがあります。

    「障害なんて関係ない!」とは言わない。「障害」の分野が接点となったからの出会いだから。障害を持っている/持っていないことも含めての、彼女/僕の人生だから。
    「差別なんてしていない!」とは言わない。だけど、差別や偏見がきっかけで、それでもなお、誰かと友達になれることがある。そんなことを思います。

    同じようなこと、差別や偏見や排除と出会う、あるいは自分が誰かを差別、排除してしまう、はこれから何度もあるのでしょう。障害の分野に限らず。その度に、考えて、悩んで、発して、聞いて、交わって…それを続けていくしかないのかな、と思います。

    まとまっていませんが…長文失礼。

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    1. やんくん、素敵コメントありがとう。

      >、あんまり繰り返し唱えられると、やがてそれ自体教条的な思考停止ワードとなって、なんか気持ち悪い、白々しい雰囲気を醸し出すことがあります。

      ⇒これ、すごくよく分かる。特に集団で叫び始めると。
      そして、あたしがそう思っていること自体が差別であり、排除であることも。

      新しいことをはじめることは、それ自体が他のスタイルを差別したり排除したりしているように見えかねないことも。

      差別は「社会」の問題なんかじゃないのかもしれない。
      一人ひとりが向き合って、その結果一人の中で起きる小さな密かな革命こそが差別を少しずつなくしていくのかもしれない。

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