今の教育の一番の課題は「生徒指導」かもしれない。

通常教育が変わらなければ障害のある子どもたちへの教育は変わらない。

こんなことはもう1960年代から言われていたこと。

私は以前も書いたように教育の本質は障害があろうとなかろうと変わらないと思っている。
その記事はこちら

現行の特別支援教育の最大の課題は、日本の教育における「生徒指導」と親和性が低いことであると最近感じている。
個々へ配慮する特別支援教育と、集団性を重視する生徒指導。
個々のための集団と、集団のための個々。

そして、更に下記の文章を読んで、教育の進化自体を止めているものはこの「生徒指導」的思考なのではないか、とも思っている。
こちらのLogan君について書いた記事にもつながっている。
あたしのずっと抱いている大きな疑問は、「学校は本当に子どもたちが幸せになるための場所になっているのか?」ってこと。


下記は国立教育政策研究所 「生徒指導を理解する」から。

「生徒指導の主たる役割は、冒頭にも示したとおり、社会参加をしながら適切に自己実現を図り、自己と社会の幸福や発展を求めて生きていこうとする、そんな人間像へと児童生徒を導くことであり、それは学校教育の目的を実現しようとすることに他ならないからです」

これは理解。

「まず、登校時の朝の挨拶にはじまり、始業開始とともに着席したら、正しい姿勢で机に向かい、教師や他の児童生徒の話に耳を傾け、自らも積極的に授業に参加するよう促すのも、生徒指導です。」
「将来のために、今、何をすべきか諭すのも、自分の生き方や将来の職業等について思いをめぐらすよう示唆するのも、生徒指導です。」
「自己の言動や生活態度をより好ましいものに高めるよう問いかけて見つめ直させるのも、生徒指導です。さらには、校訓や建学の精神等によって目指すべき人間像を示すのも、生徒指導と言えるでしょう。」
「もちろん、他の児童生徒の学習を妨げたり、学級や学校の約束を守らなかったり、さらには法に触れるような行為を行った際に行う注意や説諭も、生徒指導です。自他に対して危害をもたらすような行為について知らせ、問題を未然に回避するよう促すのも生徒指導です。また、そうした行為を心ならずも行ってしまう児童生徒に向き合い、学校や社会にうまく適応が図れるよう配慮するのも生徒指導です。自分自身について悩んだり、人間関係に傷ついたりした児童生徒を受けとめ、次の一歩を踏み出せるよう支えていくのも、生徒指導です。」

なんでも「生徒指導」なんだな…
そして先生に求められるスキル半端ないな…
これは本当に一人ひとりの幸せのための指導なのかな…


一方では「多様性を認めよう」と言いながら、こういった集団性を重視した「生徒指導」が推進されていることを考えると、おそらく少し前までは今で言うところの「体罰」も「生徒指導」として扱われていた理由も分かる気がする。

決めつけるのはよくない。

でも、自己と社会の幸福や発展を求めて生きていこうとする、そんな人間像へと児童生徒を導く、そのために必要な「生徒指導」は本当に上記にあるような指導なのだろうか。

逆に、上記のような生徒指導がおこなわれているが故に学校に「適応」できず、「問題行動」を起こしている子どもたちはどれくらいいるのだろうか。

例えば、その子にとって授業がつまらない時に、「他の児童生徒の学習を妨げたり、学級の約束を守らな」かったから「注意や説諭」をされて自己肯定感が下がったり、結果「教師や他の児童生徒の話に耳を傾け、自らも積極的に授業に参加すること」がつらくて、「学校や社会にうまく適応」できない子どもがどれくらいいるんだろうか。

ちょっとまだうまく整理できていませんが、
日本の今の教育の一番の課題は「生徒指導」かもしれない、とぼんやり考えています。

「適応できない人」を作っているのは、逆に「生徒指導」なんじゃないのか。

教育の中でも特に生徒指導のあり方を問い直さなければ、学習者がみな多様であることを前提としているインクルーシブ教育は難しい。

コメント

  1. 「これは理解」できる、と同じく僕もサラッと通り過ぎそうになりましたが、その最初の文章にある"社会参加をしながら適切に自己実現を図り"という発想こそ、日本人的特性を反映し、生徒指導をはじめとした日本の学校教育の実践を根深く縛っているのではないかと感じました。

    昨日読んだハフポストの記事、
    現代日本における意識の分裂について(1) 現代うつを巡る考察から
    http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/1_14_b_4547141.html?utm_hp_ref=fb&src=sp&comm_ref=false#sb=5256776b=facebook
    では、西洋近代的な自我と日本人的自己意識を対置して紹介しています。
    すなわち、
    ・メランコリー親和型などうつになりやすいとされている病前性格は、西洋近代目線では個人の「自我」が確立されていない、劣った性格だとみなされがちであったこと
    ・しかし、そうした西洋近代的自我を普遍的とみなす考え方は、歴史的にも地理的にも必ずしも「普遍」的な考えではなく、近代西洋の「特殊」な考えであり、現代では批判・克服の対象ともなっていること
    ・メランコリー親和型などの病前性格はむしろ、相手との関係性のなかで自己を見出し、社会や組織の中での役割へ自己をidentifyしようとする、日本人の特性と通じるものだと理解することができること(これが逆に日本の「特殊」さであり、生徒指導的発想であると言えるでしょう)。
    などを紹介しています。

    本論は次回のようですが、日本人他者や組織へ配慮するあまりうつになってしまうという、これまでの典型的なうつの理解に対し、趣味では元気なのに仕事のときだけ憂鬱になる「新型うつ」「現代うつ」への治療的対応は、より個別的・複雑で難しくなっていると指摘しています。その理由のひとつに、上記のような日本的価値観(社会・組織への同一化)の揺らぎ、多様化があるとも筆者は推測しています。グローバル化など色々なファクターがあるでしょうが、島国根性集団主義の日本社会といえど、昔より多様になってきている。

    という長い前置きですが、「新型うつ」にせよ、学校で適応できない生徒にせよ、広く集団の中での「生きづらさ」の問題が注目されるようになったのは、”社会参加をしながら適切に自己実現を図”ることができない人が増えてきたということかもしれません(逆に言えば、最近になるまで大きな問題とならなかったのは、これまでの生徒指導的価値観・慣習で押しきれる程度だった、そういう人たちは「外れ値」に過ぎなかった、とも考えられます)。日本人にも、確立した自我、よく聞く言い方をすれば「自分らしさ」を、学校や社会の外で求める傾向が強くなったのでしょう。

    この記事を書いた方は精神科医でもあり、あくまで文化的な議論であると断った上で日本人の特性と新型うつの難しさを述べていますが、"臨床場面ではこのように解決困難な形で問題を定式化することは避けられねばならない。"ともおっしゃっています。
    教育でも同じことなのでしょう。日本的なるものを歴史的・文化的を理解し、生徒指導に象徴される慣習の根深さ、手強さを認識することは大切なのですが、やはり実践者としては、全体は崩せなくとも、せめてひとりの生徒、ひとつの教室、ひとつの学校単位ではインクルージョンを追求し、実現してゆきたいものです。そう自分に言い聞かせています。

    ーーー
    余談ですが、「サンクチュアリ」という漫画で、主人公である日本人政治家が、アメリカの国務長官に日本の小学校の授業風景を見せて、「これは管理だわ!」「そう、管理です。しかし、日本人は管理されたシステムのなかでも、やりがいや楽しさを見出すことができる。これこそが日本人の強みだ!」というやり取りをしています。バブル崩壊前に書かれた漫画です。血沸き肉踊る展開で、友人間では男子必読の書だとよく話題になり(官庁や商社行くような連中に熱狂的ファンが多いw)、僕もまぁけっこう好きな漫画なんですが、しかしこれは現代日本でいつまでも通用するもんではありませんね(笑)少なくとも無批判に正当化・理想化するものでは、もはやない。

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  2. >"社会参加をしながら適切に自己実現を図り"という発想こそ、日本人的特性を反映し、生徒指導をはじめとした日本の学校教育の実践を根深く縛っているのではないかと感じました。

    ⇒確かに。「社会のため」と「自己実現」と両方目指している感じ。

    >日本的価値観(社会・組織への同一化)の揺らぎ、多様化があるとも筆者は推測しています。
    ⇒これ、超納得。

    「生徒指導」のことを考えてこのコメント読んで、もやもやしたところがわりとすっきりしたわ。やんくんは言語化うまいなー。

    おっしゃる通りで、「こんな歴史があって、だから無理!」と言うのではなくて、じゃあどうしようってところを考えていきたくて。組織一つとって考えても生徒指導的価値観が蔓延している場合、それをどう変えて行くか、とか。おもしろいなーと思う。
    他者に一生懸命合わせようとする子どもにどう働きかけるか、とか。

    管理されたシステムの中でやりがいや楽しさを見出す…
    すごく本質ついてるわー。


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