自分の学びを支配されないで

教育はある意味支配的である。
ただの自己満にもなり得る。

私たちは誰もが人を支配しようとしがち。

自分の思い通りに人を動かそうとしたり、
思い通りにならない人を排除しようとしたり、
思い通りに動いてくれる人に「良い評価」をしたり
思い通りに動いてくれない人を「できない人」にしたり。

小6の友達「支配しようと思えばできるけど、したくない」
すごく本質的。

私は他者に支配されるのなんてまっぴらだ。
だから、他者も支配したくない。相手が誰であっても。
でも支配しようとする自分がいる。

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例えば教育現場で。
私のプロフェッショナルとしてのアイデンティティは、
「自分が関わる子どもや大人の学びをサポートする人」である。
私が提示するに対して適切な回答をすることが大切なんじゃない。
その人の「学びたい!」「知りたい!」「こうなりたい!」という
顕在的・潜在的なニーズ・理想を模索し把握した上で、
その人の学びをサポートすることを大切にしたい。

学びはその子のものだ。私のものじゃない。
その子の学びを支配してはいけない。

でも私は、学びを時に押し付けようとする。
そんなつもりがなくても無意識で押し付けている。
「あの子はこう思っているはずだ」とか。
そんな自分や嫌だ、と思う。

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例えば研修の現場で。
子どもも大人も同じ。

学校見学や教育現場の見学にアドバイスを求められ行く時に大切なことは、
その学校の理想は何か。
その先生の理想は何か。
これらを把握すること。その上で、自分の引き出しから使えそうなものを提案すること。(あくまでも提案)

偉そうにふんぞり返って、自分の価値観だけで「こうするべきだ」「ああするべきだ」という専門家には絶対なりたくない。

大切なのは、その人が何をしたいか。その人の理想は何か。どうありたいか。
なぜ教育に携わっているのか。
その先生のプロフェッショナルとしてのアイデンティティはなにか。
それを実現するために、多様な選択肢を提案したい。

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例えば組織の中で。

これも、まったく同じ。
その人はどう生きたいのか。何をしたいのか。
その人にとって仕事はなんなのか。
その人のプロとしてのアイデンティティはなにか。

その方向性が多様であればあるほど、難しい。
統率をとった方が楽。支配した方が楽。
「この人はダメだ 仕事ができない」といった方が楽。

でもそうじゃなくて、私はその人の理想を知りたい。
その人がどうなりたいのかを知りたい。どうありたいのかを知りたい。
それを実現するためのサポートができる組織を作りたい。
人は何歳でも変われるし、成長する。
その人の仕事を支配したくない。生き方を支配したくない。

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誰もが、自分のやりたいことができるように。
誰もが、理想を実現できるように。

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それでも人は支配しようとする。
決定権は個々人にあるはずなのに、判断軸は個々で異なるはずなのに、
「あの子のため」と言いながら、勝手に決定しようとする。
「善悪を判断できないから」と言いながら、勝手に判断しようとする。
代弁者なんてまっぴらだ。

支配されないで、と思う。
負けないで、と思う。





追記:
アクティブ・ラーニングってようは、学びの主導権を支配しないこと。

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